T.Konishiのブログ

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研究雑々感②家並役の余話ーー近・現代「家並役」のあれこれ

はじめに

 家並役とは、「家」ごとに夫役(労働)や諸公事(年貢以外の現物)を負担する役である。この家並役は、(日本)中世後期の畿内近国に出現し、近世には全国へと展開していった・・・云々。

 学術論文では、往々にしてこのように表現するほかないが、どうも小難しくて身近な感覚を得られない。もちろん学術論文ではそのままで問題ないが、家族・友人・知人に説明するならば、「もっと分かりやすく説明して」などと言われ、終いには話の強制終了だ。

 分かりやすいかはさておき、もう少し身近なこととして説明できないであろうか。そんな動機で、以下、つらつらと駄文を書き記しておく。

 

 冒頭の説明では、家並役はまるで日本中・近世に現れる過去の話のように聞こえるが、実は現在もある(らしい)。試しに "X"(旧Twitter)で検索してみていただきたい。

 筆者もかつて検索したことがある。すると、草刈りやドブ掃除・水路掃除の用例が見られる(ここで引用したいが、個人のアカウントのため躊躇し、断念)。どうやら現代にも慣習として存在するらしい。とすれば、家並役は中世末から現代まで繋がる歴史的存在と言える。また、現代に存在するならば、日本の近代社会の中でも生き抜いてきたと思われる。そんな近・現代「家並役」のあれこれについて少し光を当ててみたい。

 

1.丹波の家並役(昭和期)

 筆者の祖母は、旧丹波国京都府中部)地域の村落部出身である。その村では、1年に1度、各家から1人成年男性が出て村の水路掃除(ドブ浚い)をするという。まさしく、家並役の特徴を慣習として残すものである。筆者は、かつて祖母に、もし祖母の父(曽祖父)が仕事などの用事で出られない場合、いかにしていたのかを尋ねた。その場合は、一緒に住んでいた叔父が代わりに出たらしい。すなわち、家並役では各家から「成年男性」を供出する必要があった。近代以降、村民が職務(曽祖父の場合は教員)を優先しなければならない状況になったとしても、村の慣習(共同体規制)としての家並役は重視されていたと言えよう。

 村の家並役が重視される状況は、筆者の祖母がその村に居住していた、1960年代までは確実にあったという。だが、現在の状況は不明ながら、仮に残っていたとしても、昔ほどの規範性(共同体規制としての力)が失われた可能性が高い。(*祖母に聞き取りに基づく伝聞情報であるため、今後は現地での綿密な聞き取りを実施し、追記したい。)

 

2.三河の家並役(明治期)

 次に、明治期の徴兵と村の家並役免除の関係を見ていきたい(この内容は、中近世移行期の社会にも大きく通じる部分がある)。以下、内容の多くは、池山弘(2006)の研究成果によるところが大きいため、はじめに断っておく*1

 明治10年代後半から、徴兵勧奨・兵役奨励のため、徴兵現役帰郷者の民間団体「徴兵慰労会」なるものが設立されたという(池山2006)。実は、愛知県下の「徴兵慰労会」規約の中に、家並役を免除する内容を散見する。例えば、三河地域の西加茂郡徴兵優待規約には、「徴兵入営スルモノアレハ道路修繕溝浚夜番等渾テ家並役ヲ免除スヘシ」と見られる*2。また、同じく八名郡徴兵慰労規約では、「徴兵入営ノ者アレハ道路修繕溝浚夜番等渾テ家並役ヲ免除スヘシ」とある*3。以上より、明治期の三河国落部における家並役の内容が、①道路修繕、②溝浚、③夜番などであったと判明する。これらは、冒頭の"X"(旧Twitter)で検索した例や、1丹波の事例で挙げたものと類似する。つまり、家並役は、村落内のライフライン維持・再生産のために、用いられていたと言えよう。そして、徴兵された者が免除されるという規定は、徴兵優待や慰労のための措置として機能したのであろう。なお、このような臨時措置は、中近世移行期においても数多くある。家並役免除をめぐる通時性が見られる点は興味深い。

 

 以上、近・現代の家並役についてあれこれと纏まりのない話を書き連ねてきた。村の家並役が村落内のライフライン維持・再生産を目的に、比較的最近まで継続してきたことがわかった。ここで改めて言いたいことは、存外広範に、そして息長く村の家並役が続いてきたという点である。村の家役が「家別」「家並」で課されるようになったというのは、15〜16世紀の畿内近国(今の近畿地方)とされる*4。それが、領主課役に転化した時期もあったが*5、あくまでもその基盤には村の家並役が持続していたということは重要であろう。村の家並役が持つ意味については、他時代の研究を含めた先学やフィールド調査に学びつつ、改めて深く考えていきたい。

 

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P.S. 論文で言えること、言えないこと、そして余話

 論文は字数制限がある。ゆえに、何が要点であるかを、論理的に説明できる訳である。ただし、全てを語るには余りにも足りない。問題意識や時代観、権力や民衆に対する私の眼差し、これらを入れ込むことができなかった。情けないが、今後の課題としたい。

 代わりに、余話を少し述べてみた。もう少し、面白くなるはずだったが、まあこれも今後の課題。そして、これは論文ではなく、ブログであるので悪しからず。

 

2023.11.22 秋の京都東山にて

 

 

 

 

 

*1:池山弘「愛知県に於ける軍事援護組織「徴兵慰労会」の形成」(『四日市大学論集』第19巻第1号、2006年)。

*2:明治十九年四月、愛知県西加茂郡徴兵優待規約、(池山2006)。

*3:明治十九年八月、愛知県八名郡徴兵慰労規約、(池山2006)。

*4:勝俣鎮夫「戦国時代の村落ーー和泉国入山田村・日根野村を中心に」(『戦国時代論』岩波書店、1996年、初出1985年)。藤木久志「移行期村落論」(『村と領主の戦国世界』東京大学出版会、1997年、初出1988年)。

*5:拙稿、小西匠「戦国期畿内近国における家並人夫役の成立」(『日本史研究』735号、2023年)。

研究雑々感①「ほうく」「ほご」ーー発音と史料と歴史学の狭間で

 「反故」「反古」という文字を見たとき、現代日本人の多くは「ホゴ」と読むであろう。

 

 だが、日本中世史の研究者は一拍置いた上で、「ホウグ」と読む可能性が頭の中をよぎる。というのも、中世史料(売券等、権利証文に多い)では仮名にて「ほうくたるへく候」「ほうくたるへし」などと記された表現を目にしたことがあり、その場合には刊本傍注で「(反故)」「(反古)」と記されていたりもする。

 初学の頃の私は、確かに文脈上は「反故」の意味を指すことは間違いないが、ここまで異なる表音を正確に解釈した先学らに恐れ入った。前近代の仮名文字は基本的に濁点もないため、尚更であった。しかし、これには裏がある。

 どうやら、ごく最近まで一部の地域の人々は、「反故」「反故」を「ホウグ」と発音していたようであった。日本近世史研究の大家、故朝尾直弘氏は、上京の町人出身の父方と大阪船場の町人出身の母方は共に「ホウグ」と発音していたと述べる*1。この文章を読み、驚くと同時に慌てて調べてみたところ、『日本国語大辞典』には以下の説明があった。

「反故」「反古」を表わす語形は数が多く、そのいくつかは同時代に並行して用いられている。ホグ・ホゴの語形も古くからあったが、特に近代になって有力となった。明治・大正期の国語辞書の多くは、「ほぐ」を主、「ほご」を従として項目を立てており、「ほご」の語形が一般的になったのは比較的最近のことである。(『日本国語大辞典』「ほ-ご」【反故・反古】の項、語誌)

 この説明を読む限り、発音の主従の異変は近代になってから起こったようである。また、「ほう-ぐ」【反故・反古】の項も引くと、語誌の(1)(2)には、奈良・平安期ごろから「ホグ」「ホゴ」が並立していたとある。そして、(3)では中世後期には、「ホウグ」の発音が優勢であり、近世に入ってからも多様な発音(ホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグ)がされていたと説明される。つまり、前近代においては「反故」「反古」の発音は「ホウグ」を主、「ホゴ」を従としつつ、多様な形で各地域で発音されていたらしい。これが、近代に入り、昭和期になった頃には「ホゴ」が主として定着し、平成期に生まれた私は当然のように「ホゴ」と習い、そしてそう呼んできたのであった。

 朝尾氏をはじめ、20世紀の前半に生を受け、数多くの刊本史料集を編纂したかつての研究者らは、ある種の常識(実生活的な知識)として「反故」「反古」は「ほうぐ」とも読むことを知っていたのであろう。ゆえに、冒頭3段落のような迂遠な説明など要らず、容易に「ほうく」に対して「(反故)」という傍注を入れられたと思われる。だが、残念な(平成生まれの)「現代人」たる”私”は、情けないことに一々勉強したり、調べたりする必要がある。昔の研究者のようにはいかないのだ。

 

 歴史学は、近年も常に新しい史料を掘り起こし、現代的な問題意識のもとで、新鮮な方法で斬新な見解を提示し続けている。この”進歩”はとても大事なことであり、私も続きたい。だが、同時に失われかねない「知」もあるのではないか、というものもある。本稿の一件は単に私が「無知」なだけだが、一昔前の何気ない、でも重要な「知」を失わずに研究していきたいと、自戒の念を込めて記しておいた。

 

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P.S. MacBookと【研究雑々感】

 この一件をより残念なものたらしめるのが、本文を執筆するために私のMacBookで「hougu ホウグ」と入力すると、「反故」が変換されたことであった、、、

 相棒としているもう一人の「現代人」はかなり優秀そうだ。「雑魚」な私の【研究雑感】は【研究雑々感】とでも呼んでおこう。

 

追記の追記:

 この度、黒木さんのご紹介で、ADVENTERの2023年アドベントカレンダー「言語學なるひと〴〵」に掲載することになりました。門外漢の出来損ないエッセイですが、「言語学な人々」の皆様にも日本史史料の文字表記と発音に興味を持ってくだされば幸いです(2023年12月3日)。

 さて、今回アドベントカレンダーのイベントに招待いただいた時に、「本当にこんな『誰得』エッセイで良いのであろうか」と思い、過去のアドベントカレンダーを幾つか確認してみました。研究での気づきや初学者向けの方法論の解説など、多様なお話を覗かせてもらいました。まあ、プロのものを見てますます自信をなくしたわけですが、同時に言語学の研究者・愛好者は「なんて面白いイベントを年末にやっているのであろうか」と感服した次第です。

 「日本史研究者も日頃の気づき、研究方法の解説を・・・アドベントカレンダーで・・・」と思いながらも、「私よりも研究ができる皆様は忙しいし、それどころではないか」と至りました。分野や方法の違いはあるかもしれませんが、研究者間で素直に「面白さ」を文章で共有できる環境は楽しそうです。

 

 

*1:朝尾直弘『放愚抄』私家版、2001年

中世の日常/非日常②ー戦国時代の雑踏事故ー

歴史上の事件・事故・災害を現在に生かすことができるか。

また、現実の出来事から歴史を再解釈することができるか。

 

どちらも一筋縄にはいかない問いであり、むしろ安易に結びつけることに慎重にならねばなるまい。これを大前提に置いた上で、一つ目の問いに答えることができれば、昨今頻りに唱えられる「有用性のある学問」(これ自体ほぼ無意味なキャッチフレーズだが、)に対する一つの解答にもなりうるであろう。

ただ、実際のところ、地震や災害との関係で歴史学(文献史学)が大いに成果を上げている事実がある。また、地盤降下や海面(湖面)上昇を人間の生きるスパンで解明するのに近年の歴史学(環境史)は寄与している。特に自然災害との関係では、現代社会の防災に歴史が大いに生かされているといっても過言ではない。

一方で、事件に関して言えば、現在に生かすことがあまりなされていない。なぜならば、歴史的事件は特殊な条件下で発生した出来事であり、その一回性ゆえに全く同じことは繰り返さないためである。異なる条件下で発生した過去の出来事に徒らに現在に投影してしまうと、判断を誤る可能性すらある。(もちろん教訓や道徳などのようなものとして利用されることはあるが・・・)

さて、長い前置きを踏まえて、今回はあえて人為的な災害たる「事故」を取り上げることにしたい。事故は事件と災害の中間に位置するものだが、その悲惨な結末を知っていれば、何かしらに役立てられるか、という思いである。

 

2022年10月29日夜半、韓国ソウル特別市の梨泰院で雑踏事故が発生した。ハロウィンの夜に狭い路地に多くの人々が集まったことで群衆雪崩が発生し、多くの命が犠牲となった。我々の記憶にも新しい悲惨な事故である。

翌朝以降、隣国の日本でも事故のニュースが報道され、多くの人が衝撃を受けたと思われる。次第に明らかとなる事故の詳細の中で、男性よりも女性の犠牲者が多かったことが知られた。群衆の中で圧迫を受けると、一般的に身体が小さければ小さいほど、呼吸困難になりやすく、圧死に至るリスクが高まるとされる。このような話は、本来悲しい事故が起きなければ知り得なかったものであった。

しかしながら、長い歴史のなかで(過去の延長に生きる)我々は類似の雑踏事故を経験している。本記事では、それについて少し詳しく取り上げてみたい。

 

戦国時代も佳境に入りつつある天文五年(1536)七月末、京都では天文法華の乱が起こった。延暦寺と六角定頼の軍勢が京中に侵入し、町衆を中心に信仰を集めていた法華宗を攻撃した。この天文法華の乱では、3,000〜4,000人の犠牲者が出て、下京のほとんどと上京の2/3が焼失したとされる(『祐園記抄』天文五年七月条)。ここまでで既に悲惨な事件(戦争)だが、連なって更なる悲しい事故が発生した。

又内裡ヘニゲ入者数千人アリ、女・童部押コロサレ、又ハ水ニカツエテ死ス、四方ノツヰツノ外ヘナゲ出シ々々スル間内程廻死人数百人有云々、(『祐園記抄』〈『続々群書類従 第三 史伝部』『続南行雑録』所収)

これは、南都(奈良)の春日社司中臣祐園が伝聞をもとに書いた記事の引用である。そこには以上のように、焼け残った禁裏に逃げ込んだ人々とその悲惨な結末が記される。戦国期の禁裏空間(特に庭)は民衆にとって緊急時の避難場所とされていた(清水1998*1)。したがって、人々は禁裏に逃げ込んだわけだが、その中で「女・童部」が圧死したと記される。また、水に飢えて亡くなる者も続出し、四方の築地塀から禁裏の外へ投げ出された遺体が数百人にのぼった。

ここで見られる内容は、死因から考えるに、まさしく群衆が狭い空間に殺到したことによって引き起こされた雑踏事故であろう。そして、注目すべきは犠牲者の多くが女性と子どもであったという点である。一般に、成人男性に比べて相対的に身体が小さい人々から圧迫に耐えきれず、亡くなったと考えられる。これは梨泰院の事故と大変酷似した状況と言えよう。

 

「現実の出来事から歴史を再解釈することができるか。」

かつて、この戦国期の雑踏事故を分析した清水克行は、この引用部から妻子が優先的に避難させられていた結果であると論じた(清水1998*2)。もちろんそのように解釈することも十分に可能だが、混乱の中で禁裏に逃げ込んだのは女性と子どもだけであったのであろうか。むしろ避難者には男性も含まれていたが、雑踏事故の結果として被害が女性と子どもに集中した可能性もあるのではなかろうか。筆者自身も清水論文を読んだ時期が、昨年10月以前であったならば、違和感を抱かなかったかもしれない。だが、現実の雑踏事故の衝撃を目の当たりにした今では、以上のような再解釈が成立すると考えられる。

 

「歴史上の事件・事故・災害を現在に生かすことができるか。」

昨年の雑踏事故に加えて、戦国時代の悲惨な大事故を踏まえた場合、群衆雪崩の際に最も犠牲となりやすいのは子ども、そして女性の順になるということである。梨泰院ではハロウィンの夜という特殊条件ゆえに大人が多かったが、そうした条件を除けば子どもが一番危ないであろう。そして、群衆による雑踏事故は概して、統制が効かない混乱の最中で起こりやすい。書いていて当たり前のような気がしてきたが、実際に現場にいると、なかなか正常に判断を行うこと自体が難しいと思われる。以上、二件からこうした幾つかの教訓を導き出されるのではなかろうか。簡単に実生活に生かすことは難しいが、知っていて損はないし、悲惨な事故を繰り返さないためにも、語り継ぐべき内容であろう。

 

つらつらと駄文を書き重ねてしまった。本記事の内容自体が、未だ鮮明な事故の記憶を思い起こさせる可能性もあり、公開するか悩ましいが、事故を風化させないため、そして冒頭の二つの問いを実践するために踏み切ることにする。

 

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P.S. 謹賀新年

新年初めての、そして久しぶりの記事がこれで良いのか随分と悩んだ。

年末年始に清水克行さんの著作を読み、その文章力と構想力に随分と魅了された。あまりに面白いので、自分でも色々考えてみようと思い、書き始めた文章であったが、拙いし、何より意図するところが上手く伝わるか不安だ。「伝わってくれ、お願いします」という気持ちです。

今年も少しずつでも良いので何かしら書き続けていければという思いです。よろしくお願いします。

 

 

*1:清水克行「戦国期における禁裏空間と都市民衆」(『[増補版]室町社会の騒擾と秩序』講談社、2022年、初出1998年

*2:前掲清水論文

境界域の歴史③ー北方民族世界のもう一つの地図・北海道編ー

唐突な告白だが、私は北海道の出身だ(正確に言えば、出身地の一つは北海道である)。

日本史の研究の界隈では、案外「地元の歴史」を調べている方は多い。日頃暮らす地域のかつての姿や己のアイデンティティを追い求めることは、十分に研究の動機になりうる。日本における日本史研究の意義がアプリオリに問われない本質的な要因もここにあろう。ところが、私の身を振り返れば、研究の関心や動機はそこになかった(詳しく書くと脱線が過ぎるため、ここでは略す)。京都の大学に進学し、中近世移行期の畿内近国を中心に研究を進めてきた。中世における日本列島の中心地域を扱ううちに、同時に地域間の差異や、周縁世界へも興味が生じてきた*1。このように、歴史学を突き詰めていけば、一度は「捨て」てきたと思っていた北海道や北方民族世界にまた舞い戻り、考え直すいい機会を得られたと思う。

 

先日、たまたま北海道に帰る機会があり、二風谷(にぷだに、平取町)コタンとウポポイ(白老町)を訪れた。二風谷はアイヌ民族の象徴的なコタン(集落)の1つであり、私がかねてより訪れてみたいと熱望していた場所であった。ウポポイは2020年にオープンした民族共生象徴空間の愛称であり、国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園・慰霊施設などを含むアイヌ文化復興・創造・発展のための拠点である。こちらは本年2月にも行ったことがあったので2度目の訪問である。本記事では両所に行ってきて得られた所感を中心に、北方民族の歴史を考えてみたい。

 

まず、「日本の歴史」「日本史」とは何を対象とするかを考えてみたい。邪馬台国、古代の律令国家、源頼朝によって開かれた鎌倉幕府江戸幕府に明治政府、この辺は勿論「日本史」の中心を占めよう。これらは専ら和人や大和民族と呼ばれる集団の歴史である。さて、問題は和人世界の周縁、乃至はその域外で独自の生活・文化圏を構築した人々の歴史ーー具体的にいえば、北方のアイヌ、ニブフ、ウイルタ、南洋の鬼界、奄美琉球八重山、そして対馬、五島、船で暮らす混血の海民たちの歴史ーーである。一応、現在のところはこれらも含めて日本史とされるが、真にそれらの歴史も「日本史」として考えることができているであろうか。専ら和人から見た境界域の歴史だけを対象にし、狭義の「日本」との関係のみに焦点を当てていないか。もっといえば、彼らの視点から見た世界を認識できているか、理解しようとしているか。境界域・周縁の歴史も「日本史」というならば、ときにこれらを自問しながら考える必要があろう。

そこで、今回は北海道を中心に置いた地図をベースに話を進めてみたい。国土の北の端を真ん中に持ってくることで何か新しいことが見えてくるかもしれない。

 

北海道を真ん中に持ってきた2つの極東アジアの地図がウポポイ内の国立アイヌ民族博物館の常設展出口付近に展示されている。1つは19世紀の民族分布を示すもので、北海道・南樺太アイヌ北樺太のウイルタ・ニブフ、沿海州のオロチ・ウデヘ、黒龍江アムール川)河口部のネギタール・ナーナイ、カムチャツカのイテリメン・エヴェン・コリヤーク、そしてシベリア・北極海・アラスカ周辺の北方諸民族の分布が一目瞭然である。実際には諸民族混在地域を想定すべきだが*2、とりあえず北方諸民族の数の多さを手早く認識でき、便利である。もう1つは、19世紀の交易ルートを表すもので、極東・東アジア、シベリア・アラスカ・北極海沿岸の特産品のイラストと、赤い線で描かれる交易路の交わりが見て取れる。私はこれらの地図を見た際に少し驚き、すぐに己の先入観を恥じた。

実は、上記の両図には1つの仕掛けが施されていた。というのも、これらはオホーツク海辺りを中心に東に約60度傾いた状態で描かれている。たしかに一見特異に映るが、北方諸民族の分布や交易ルートを見るにはこの形が適当である。そして、この地図は普段目にしないがゆえに、新鮮さと共に各地域間の距離感がわかりやすい。その中で最も興味深いと感じたのは、北海道を中心に見た場合に、北京・天津・杭州・福州といった中国の交易都市と、シベリアのヤクーツク・キャフタや北極海のアニュイがほぼ等距離であり、当然ながらオホーツクやカムチャツカ半島のボリシェレツク、沿海州満州諸都市の方が遥かに近い。「日本史」を習ったことがあれば、違和感を覚える者も多いと思われる。

日本は有史ーー正確に述べれば、有史以前に中国の歴史書にも既に登場するーー以来、東アジアの世界秩序の中で中国という国(地域)の影響を大きく受けてきた。文字、宗教、技術とあらゆるものが中国から朝鮮半島ないしは南西諸島を経由して南から日本列島に到来し、それらを古代国家形成の一助とした。そのため、「日本」は中華的秩序の端に位置付けられ、また中世以降は中国を中心とする東アジア世界経済に組み込まれた(村井2012)。そのような強大な隣国として「日本」の歴史に影響を及ぼしてきた中国が、北海道を中心にし見た場合はかなり遠方の国家に変容する。もちろん北方交易における中国の産品(蝦夷錦など)や中国商人らの働きを無視するわけではないが、相当に中国のプレゼンスが低下してしまうことは否定し難い。北海道(アイヌモシリ)に暮らす北海道アイヌにとって、より重要であったのは北方諸民族の中での交流であり、その視点を第一に持つ必要がある。ここで日本の定義を論ずるつもりはないが、日本史に北海道やアイヌの歴史を組み込むならば最低限それらの視点から見た「世界」も頭に入れておくべきであろう。

 

我々がよく目にする日本地図は、日本標準時子午線が通る兵庫県明石市周辺を中心におき、右上に北海道、左下に九州が来る。紙幅の関係から南西諸島や小笠原諸島は別記される場合が多い。日本列島が弓形状であり、現在の日本国の中心が本州であるため当然の帰結である。ただ、それゆえに列島の端に位置する周縁や境界域の世界が見えにくくなってしまう弊害もある。私の先入観は歴史学を専門とする者ならではものかもしれないが、中国や朝鮮半島、東南アジアとつながる「南からの道」が重要であるがゆえ、もう一つの北方世界と繋がる「北からの道」の存在や意味そのものをおざなりになることもあるはずだ。これを自省を促す契機として、周縁や境界域の歴史を考える際は、地図の中心をずらし、そこを原点に回転させてみるべきか・・・*3

 

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P.S.二風谷は?

例のごとく構想もプロットも作らず、適当に殴り書いた結果「二風谷の話がないじゃないか!」と。全くもってその通りなのだが、どうしてもまず自らを中心に置いてしまう世界観を相対化したく、境界域を考える場合の基本的な注意事項を記すことにした。とはいっても、二風谷の話も書きたいので、またの機会に預けておきたい。

 

参考文献:

村井章介戦国史のなかの戦国日本』(ちくま学芸文庫、2012年)

*1:詳しくは、「境界域の歴史①ー支配における中心と周縁の問題・奄美大島編ー」参照。

ku-history.hatenablog.com

*2:境界史を専門とする村井章介によれば、14・15世紀の道南十二館ではアイヌと和人の共住や混在が見られるという(村井2012)。近代ヨーロッパ由来の「国境」概念が強力に作用する以前においては、民族分布にも弾力性があったともう少し柔軟に考えておきたい。

*3:村井2012の十三湊や沖縄本島を中心として同心円状の地図も有効かもしれないが、回転させると新鮮な気付きがあるかもしれない。

中世の日常/非日常①ー渡月橋が落ちた日ー

「ロンドン橋落ちた」"London  Bridge Is Broken Down" は一度耳にしたら決して忘れない英国の童謡である。歌詞の内容は、壊れたロンドン橋を様々な材料を用いて新しい橋を建設するというものである。

実は、このロンドン橋は「落ちた」ことがないらしい。かつて10〜12世紀の木橋は幾度か壊れたそうだが、ヘンリー2世時代の1209年に石橋が完成してから約600年間崩壊せず、1832年に架け替えられたとされる。つまり、童謡が成立した17・18世紀に壊れていないのにも拘らず、ロンドン橋が壊れた設定になっている。私は実際にロンドン橋を訪れたことがあるが、存外に地味なこの橋は壊れそうにもない丈夫なものであった。やはり、中世の木橋でもない限り「落ちる」ことはなさそうだ。

そんなところで、筆者は「ロンドン橋落ちた」という邦題に対して、ほんの少し違和感を持った。なぜ "Broken Down" *1の和訳を「壊れた」ではなく、「落ちた」にしたのであろうか。間違いと言いたい訳ではなく、石造りの橋ならば「ロンドン橋壊れた!」でも良かったのではないだろうか、という程度の疑問である。筆者はこの謎を解く鍵が、石橋と木橋ーー西洋の橋と日本の橋ーーの差異、ひいては橋に対する人々の認識の相違に隠されていると考える。

 

さて、話を1万キロ東の同じく島国へ。

時は戦国時代、所は京都。公家山科言継の日記から、一節を引きたい。

十三日、(中略)朝飯以後正親町へ罷候、四過時分被出候、嵯峨念仏被参候、人数正親町、老父、予、白川少将、西室、師家朝臣、業家、盛時、〈転法輪諸/大夫、〉頼相〈同〉、等也、嵯峨にて赤飯にて酒を正親町ふるまはれ候、うたい候了、路次中大概うたい候了、兎月橋中絶候て、人七八十人計落候、少々面なと打破候者候了、然間虚空蔵へは不参候了、七過時分罷帰候了、(後略)

(『言継卿記』享禄二年三月十三日条)

享禄二年(1529)三月十三日、山科言継は父言綱や、正親町・白川らの他の公家とともに、嵯峨に念仏をするため、虚空蔵法輪寺へ向かった。道中では、正親町が赤飯や酒を振る舞い、皆で唄うなど、大変楽しそうな様子が垣間見える。こうした楽しい場面の最中、突然大事故が発生した。

「兎月橋(渡月橋)」が壊れたのである。

渡月橋といえば、嵯峨の桂川北岸から南岸にかけて架かる有名な橋である。現在でも多くの観光客が訪れるが、500年前も70〜80人が橋を渡っていたらしい。大変なのは渡月橋が壊れたせいで、彼らが「落ちた」ことである。顔を怪我した人もいる旨が記される。結局、言継らは対岸の法輪寺には行けずに、帰ったらしい。

このように、日本の中世には木橋が壊れ、上を行き交う人々が落ちることもあった。石橋が壊れるシーンはなかなか想像し難いが、木橋なら壊れることもあったのであろう。比較すれば、木橋はより耐久性が低く、風雨に晒されれば脆くなりやすい。裏返せば、木橋は石橋よりも維持管理が大切になるはずである。ところが、中世にはそもそも木橋を管理する専門的な行政部門はなく、それどころか戦国期には政治権力すらも頻繁に空白化していた。災害や降水量の多い日本では、記録に残らずこっそり「落ちていた」橋も多かったはずである。木橋があった時代の日本では、「〜〜橋落ちた」という情景が、日常とは言わないものの、時折見聞きしたと思われる。

 

ことさら西洋と比較する必要はないかもしれないが、近代になって西の島国の童謡を邦訳する際に、日本に暮らす人々にとって、橋は「壊れる」よりも「落ちる」と表現した方がしっくりきたのではなかろうか。現に、渡月橋が壊れる時には人が沢山「落ちた」のであったのだから。

 

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P.S.

最近京都も客足が戻りつつあり、渡月橋にも人が多そうだ。現代の渡月橋は、数年に一度は桂川の濁流に沈むが、もはや落ちることはないだろう(いや、あったら大ニュースだ)。法輪寺は、かつて十三詣りで祖父母に連れていかれた記憶がある。一昨年行ったら、案外感慨深いものであった。お詣りした後は、橋まで振り返ってはいけない、と言われたことを思い出しながら帰途に着いた。

写真を撮る若いカップル、はしゃぎながら歩く休日の家族、遠方よりやってきたツアー御一行様、と老若男女が行き交う橋の上で、何を思うか。「戦国時代には、これ落ちてたよな」と不要な知識が頭の中をかけ巡る。

2022/08/10

 

 

 

*1:歌詞によっては "falling down" の場合もあり、これを先に訳したのならば全く問題ない。

中世人の気持ち①ー孫ぶたれ、爺嘆くー

「親父にも打たれたことがないのに…」

という台詞はたまに耳にする。家族よりも関係が希薄な間柄で暴力が行使された際に使う言い回しである。ただ、近年は親父も子を叩かないのが一般的であり(逆に叩いていたら大問題)、むしろ慣用表現としての使用が多いように思われる。とはいえ、今年24歳になる筆者は親父に打たれたことはないが、2回り歳を重ねる父が子どもの頃はよくあったらしい。子に対する暴力をめぐる価値観は、ここ3、40年の間に大きく変容したと言えそうだ。

かつては子に対する親の暴力行使というのは「躾」なる名目で許容されてきた。とはいえ、幼い子への暴力に対し、当人はともかく周囲の人間は全く心を痛めなかったのであろうか。そこで、中世の日記から彼らの心持ちを探ってみたい。

 

一、彦兵衛今朝彦二郎打タゝク、予出向、本所之近所之間申之、事外腹立、一日物クワス候也、比興候也、殊々色々申之、曲事也、

(『山科家礼記』長享二年九月二十二日条)

 

これは室町末期に公家山科家に家礼として仕えた大沢久守(当時、数え年で59歳)が記した文章である。ここに登場する人物はあまり有名ではないため、まずは紹介がてら彼らの関係を整理してみたい。彦兵衛は大沢重致(久守子、35歳)、彦二郎は後の大沢重敏(久守孫、重致子、9歳)を指す。つまり、長享二年(1488)九月二十二日早朝に「親父」たる重致が、子の彦二郎を打ち叩いた事件が発生し、彦二郎祖父の久守がそれを書き残したものである。

さて、今回着目したいのは祖父久守の感情ーーすなわち、爺ちゃんの気持ちーーである。

事件発生後、久守はすぐに彦兵衛らの家に出向き、何事かを述べている。そして、久守は腹を立てて一日何も食べなかったという*1。彦兵衛の孫に対する仕打ちに怒ったのであろう。さらには、彦兵衛を「比興候也」「曲事也」と強く非難した。

久守にとって、数え年で9歳になる孫の彦二郎は目に入れても痛くない大切な孫だったことは想像に難くない。しかしながら、久守が腹を立てて一日断食するというのは、現在の常識と照らし合わせると、少々やり過ぎな気がしないでもない。一般に中世人というのは現代人よりも感情が表に出るとされ、「笑われるとキレる中世人」と言われることもある(清水2006)*2。この事件でも感情が即座に振る舞いーー行動様式ーーに直結する中世人の生き方が伺えよう。それはさておき、今回は久守は大切な孫に対する子の仕打ちを嘆き、強い抗議のしるしに断食を行ったと考えたい。孫に対する愛情というのは中世人も現代人も関係なく、通時代的な感情であるが、中世人の方がより強く表出しているのは興味深い。戦乱・飢饉が頻発し、また乳幼児死亡率が高かった中世後期に、子孫の繁栄を願う老い先の短いお爺さんの視点に寄り添えば、孫が大切で大切で仕方がないのは肯けよう。久守の振舞いから、中世人も現代人同様、いやそれ以上に孫への愛情、幼い者への暴力行使に反対する気持ちが垣間見えるのではなかろうか。

 

さて、残された問題としては、なぜ隠居前で家長たる久守が、重致の非道に嘆くしかないのか。なぜ重致は彦二郎に暴力を振るったのか。これは家父長制の問題と家族の形態を同時に考えなければならないであろう。ただ、先鞭も多くつけられており、また論ずる力量は全く持ち合わせていないため、ここで止めておきたい。

さて、ちょうど近江国から京へ帰還したため、筆を置くことにする。

 

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P.S. 「感情」史の始め

この文章は、中世人の感情・感性に迫ろうとした初めての試みである。

ゆえに、話があまり面白くないという葛藤もあるが、少しずつ積み重ねていけば叙述も上達するであろう。これまで社会史や感情史とは一定の距離を置いてきたが、やはりそうした手法や分野を学ばずには、先に進めないという結論に至った。恥ずかしいが、少しずつ感情や習俗に関する見解を提示していきたい。

2022/06/22

引用史料元:史料纂集古記録編『山科家礼記』第四巻(続群書類従完成会編、八木書店

 

 

 

*1:なお、「本所」すなわち主君の山科言国の邸宅から近所であるため、事件を伝えているが、この一節が直後の「腹立」に関わるかは不明である。

*2:清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社、2006年)

境界域の歴史②ー揺れる時代区分、歴史家の苦悩・続奄美大島編ー

歴史家の苦悩とは何たるか。

 

ある研究者が講義で「歴史学とは時代を区分することである」と述べていた。本当にそうであるのか、という議論は置いておくとも、歴史学における時代区分の重要性は十分に認められるところであろう。

まるで自明の存在のような「◯◯時代」という表現も、かつての歴史家が名付けたものである。例えば、現在のところ「室町時代」と呼ばれる時代も、戦前においては「足利時代」と呼ばれる方が多かった(谷口2021)。実際に、いわゆる「室町幕府」が京都の室町に幕府を置いた時期は限られ、むしろ「京都幕府」と呼んだ方が鎌倉幕府江戸幕府と比べた時に対応するといった話も出てくるくらいだ。とはいえ、「京都時代」と呼ぶわけにはいかないので、鎌倉時代・江戸時代との対応関係を重視するならば、まだ室町時代の方が適当であろう。いずれにせよ「足利時代」と呼称することが荒唐無稽な話ではなく、一理あるわけである。ここで何が言いたいかと言えば、時代の呼称も歴史家・歴史学者たちが知恵を振り絞り、名付けているのである。それゆえ、決して自明視していいものでもないということである。そして、時代の範囲設定に関してはさらに多くの学説が噴出する。鎌倉時代の始まりはいつか、戦国時代はいつ終わったのか、と議論が繰り返されてきた。それほど歴史に携わる人間にとって、「時代」を名付け、範囲を設定するという時代区分は重要な作業であるというのを理解してもらいたい。

 

さて、ここらで切り上げ、話を境界地域へ。

奈良時代も、平安時代も、鎌倉時代も、室町時代も、江戸時代もよくよく考えると、首都もしくはそれに準じる都市や町の名が付けられている。すなわち、政治的中心地が時代名になっているわけである。そのため、当然ながら中心から周縁に向かえば向かうほど、時代名や時代区分とのズレも大きくなってしまう。例えば、古代は律令国家体制といっても、同時代にその領域外にある北海道や南西諸島の歴史を「古代」と呼ぶのは適当ではないであろう。このような境界域の歴史では、往々にして中心域の時代区分・時代名をそのまま適用するか否かといった葛藤が生じてしまう。

ここで本題だが、奄美大島における時代区分を紹介したい。以前の記事「境界域の歴史①ー支配における中心と周縁の問題・奄美大島編ー」で触れたように、奄美は「日本」の歴史から一定の自律性を有する独自の歴史を持つ。例えば、「弥生時代」になったからといって稲作が開始するわけでも、「古墳時代」になったからといって突然巨大な古墳が作られるわけでもない。狩猟(漁撈)・採集による文化が比較的長く継続する(北海道なども似た様相)。もちろん中世になっても「日本」の中世王権に組み込まれたわけでなく、ある程度の独自性を保つ。だからこそ「貝塚時代」「グスク時代」という表現は相応しいと思われる。ところが、その一方で当時の「中世日本」と全く無関係だったわけでもない。いや、むしろ日本や宋、そして遅れて登場してくる琉球王国沖縄本島)の影響は大いに受けていた。中世の南西諸島では、徳之島で作られたカムィ焼が広く流通すなど、日宋貿易・日麗貿易・日朝貿易の海上交易路と機能していたことが確認されている。となると、「日本」の時代名とも関連性を示す必要が生じてくる。そこで、考案されたのが、

「中世並行期」

という呼称である。この「○○時代並行期」「△世並行期」という呼称は奄美の歴史叙述で頻繁に用いられる(考古学分野が積極的に用いている節もある)。たとえば、「弥生時代並行期」では稲作が普及していないが、九州との繋がりを重視し、時期区分の呼称として使用される場合がある。「中世並行期」の場合、「中世日本」の指標(荘園制であるとか、権門体制であるとか、はたまた武士の活動とか)が南西諸島、こと奄美大島に見られるわけではないが、先に挙げた地域間交流の作用を重視した結果、「中世日本」の時代区分を採用した時代名となっている。ここにも、前記事で取り上げた中心と周縁の問題ーー「日本」の中心性を強調することで、周縁に追いやられる奄美の独自性が捨象される恐れーーを全く孕まないわけではないが、両者の交流による影響の大きさをとったのであろう。

このように、時代を区分し、名付けるというのは歴史学者の重要な仕事であると同時に、大きな悩みの種なのである。特に、境界域の歴史には先に挙げた中心と周縁の問題が常に付き纏う。たとえば、北海道の続縄文文化、擦文文化、オホーツク文化、そしてアイヌ文化の各時代に「日本」の時代区分をそのまま導入することは難しいであろう。沖縄も同じである。では、東北地方はいかがであろうか。詳しく見ると、北東北と南東北の間でも、古代国家「日本」に取り込まれた時代に差異があり、単純に当てはめるわけにはいかないであろう・・・

そして、これが大きな問題になるのは、各地域に今も人々が暮らしながら地元の歴史(地域史)を考える際に、中央の時代名を無自覚に濫用されていると、自らの歴史を否定されたように(否定までいかなくとも、覆い隠すように)感じる場合がある点である。

 

歴史を叙述するにあたって、真っ先に使う時代区分・時代名についても慎重な検討を要するということを、自らの心に刻んでおきたい。

 

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P.S. ティラダとトビンニャ

奄美大島を旅するということは、すなわち、奄美の居酒屋を巡ることである(?)。

その時、居酒屋で出される、ある貝の名前が奄美の南北で大きく異なることを知った。マガキガイのことを奄美北部では「トビンニャ」と呼び、南部では「ティラダ」と呼ぶ。更にややこしいことに、大島南端の対岸に位置する加計呂麻島では「トビンニャ」と呼ぶらしい。

奄美は平坦で珊瑚礁の海に囲まれた北部と、急峻な山・マングローブリアス式海岸がある南部で自然地形が違う。これが南北で多くの文化的差異を生み、複雑かつ多様な奄美大島を作り出している。方言も南北で差異があるらしい。ティラダとトビンニャに関しても、分布を見ると、どうも琉球か薩摩のどちらかの言葉が汎用されたか分かりそうである。が、酒飲みながら考えることではあるまいし、美味しくいただくのが一番である。

それにしても、ティラダとトビンニャは全く違う発音で驚かされた。

 

参考文献:

谷口雄太『〈武家の王〉足利氏』(吉川弘文館、2021年)