T.Konishiのブログ

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中世の日常/非日常①ー渡月橋が落ちた日ー

「ロンドン橋落ちた」"London  Bridge Is Broken Down" は一度耳にしたら決して忘れない英国の童謡である。歌詞の内容は、壊れたロンドン橋を様々な材料を用いて新しい橋を建設するというものである。

実は、このロンドン橋は「落ちた」ことがないらしい。かつて10〜12世紀の木橋は幾度か壊れたそうだが、ヘンリー2世時代の1209年に石橋が完成してから約600年間崩壊せず、1832年に架け替えられたとされる。つまり、童謡が成立した17・18世紀に壊れていないのにも拘らず、ロンドン橋が壊れた設定になっている。私は実際にロンドン橋を訪れたことがあるが、存外に地味なこの橋は壊れそうにもない丈夫なものであった。やはり、中世の木橋でもない限り「落ちる」ことはなさそうだ。

そんなところで、筆者は「ロンドン橋落ちた」という邦題に対して、ほんの少し違和感を持った。なぜ "Broken Down" *1の和訳を「壊れた」ではなく、「落ちた」にしたのであろうか。間違いと言いたい訳ではなく、石造りの橋ならば「ロンドン橋壊れた!」でも良かったのではないだろうか、という程度の疑問である。筆者はこの謎を解く鍵が、石橋と木橋ーー西洋の橋と日本の橋ーーの差異、ひいては橋に対する人々の認識の相違に隠されていると考える。

 

さて、話を1万キロ東の同じく島国へ。

時は戦国時代、所は京都。公家山科言継の日記から、一節を引きたい。

十三日、(中略)朝飯以後正親町へ罷候、四過時分被出候、嵯峨念仏被参候、人数正親町、老父、予、白川少将、西室、師家朝臣、業家、盛時、〈転法輪諸/大夫、〉頼相〈同〉、等也、嵯峨にて赤飯にて酒を正親町ふるまはれ候、うたい候了、路次中大概うたい候了、兎月橋中絶候て、人七八十人計落候、少々面なと打破候者候了、然間虚空蔵へは不参候了、七過時分罷帰候了、(後略)

(『言継卿記』享禄二年三月十三日条)

享禄二年(1529)三月十三日、山科言継は父言綱や、正親町・白川らの他の公家とともに、嵯峨に念仏をするため、虚空蔵法輪寺へ向かった。道中では、正親町が赤飯や酒を振る舞い、皆で唄うなど、大変楽しそうな様子が垣間見える。こうした楽しい場面の最中、突然大事故が発生した。

「兎月橋(渡月橋)」が壊れたのである。

渡月橋といえば、嵯峨の桂川北岸から南岸にかけて架かる有名な橋である。現在でも多くの観光客が訪れるが、500年前も70〜80人が橋を渡っていたらしい。大変なのは渡月橋が壊れたせいで、彼らが「落ちた」ことである。顔を怪我した人もいる旨が記される。結局、言継らは対岸の法輪寺には行けずに、帰ったらしい。

このように、日本の中世には木橋が壊れ、上を行き交う人々が落ちることもあった。石橋が壊れるシーンはなかなか想像し難いが、木橋なら壊れることもあったのであろう。比較すれば、木橋はより耐久性が低く、風雨に晒されれば脆くなりやすい。裏返せば、木橋は石橋よりも維持管理が大切になるはずである。ところが、中世にはそもそも木橋を管理する専門的な行政部門はなく、それどころか戦国期には政治権力すらも頻繁に空白化していた。災害や降水量の多い日本では、記録に残らずこっそり「落ちていた」橋も多かったはずである。木橋があった時代の日本では、「〜〜橋落ちた」という情景が、日常とは言わないものの、時折見聞きしたと思われる。

 

ことさら西洋と比較する必要はないかもしれないが、近代になって西の島国の童謡を邦訳する際に、日本に暮らす人々にとって、橋は「壊れる」よりも「落ちる」と表現した方がしっくりきたのではなかろうか。現に、渡月橋が壊れる時には人が沢山「落ちた」のであったのだから。

 

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P.S.

最近京都も客足が戻りつつあり、渡月橋にも人が多そうだ。現代の渡月橋は、数年に一度は桂川の濁流に沈むが、もはや落ちることはないだろう(いや、あったら大ニュースだ)。法輪寺は、かつて十三詣りで祖父母に連れていかれた記憶がある。一昨年行ったら、案外感慨深いものであった。お詣りした後は、橋まで振り返ってはいけない、と言われたことを思い出しながら帰途に着いた。

写真を撮る若いカップル、はしゃぎながら歩く休日の家族、遠方よりやってきたツアー御一行様、と老若男女が行き交う橋の上で、何を思うか。「戦国時代には、これ落ちてたよな」と不要な知識が頭の中をかけ巡る。

2022/08/10

 

 

 

*1:歌詞によっては "falling down" の場合もあり、これを先に訳したのならば全く問題ない。