T.Konishiのブログ

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研究雑々感①「ほうく」「ほご」ーー発音と史料と歴史学の狭間で

 「反故」「反古」という文字を見たとき、現代日本人の多くは「ホゴ」と読むであろう。

 

 だが、日本中世史の研究者は一拍置いた上で、「ホウグ」と読む可能性が頭の中をよぎる。というのも、中世史料(売券等、権利証文に多い)では仮名にて「ほうくたるへく候」「ほうくたるへし」などと記された表現を目にしたことがあり、その場合には刊本傍注で「(反故)」「(反古)」と記されていたりもする。

 初学の頃の私は、確かに文脈上は「反故」の意味を指すことは間違いないが、ここまで異なる表音を正確に解釈した先学らに恐れ入った。前近代の仮名文字は基本的に濁点もないため、尚更であった。しかし、これには裏がある。

 どうやら、ごく最近まで一部の地域の人々は、「反故」「反故」を「ホウグ」と発音していたようであった。日本近世史研究の大家、故朝尾直弘氏は、上京の町人出身の父方と大阪船場の町人出身の母方は共に「ホウグ」と発音していたと述べる*1。この文章を読み、驚くと同時に慌てて調べてみたところ、『日本国語大辞典』には以下の説明があった。

「反故」「反古」を表わす語形は数が多く、そのいくつかは同時代に並行して用いられている。ホグ・ホゴの語形も古くからあったが、特に近代になって有力となった。明治・大正期の国語辞書の多くは、「ほぐ」を主、「ほご」を従として項目を立てており、「ほご」の語形が一般的になったのは比較的最近のことである。(『日本国語大辞典』「ほ-ご」【反故・反古】の項、語誌)

 この説明を読む限り、発音の主従の異変は近代になってから起こったようである。また、「ほう-ぐ」【反故・反古】の項も引くと、語誌の(1)(2)には、奈良・平安期ごろから「ホグ」「ホゴ」が並立していたとある。そして、(3)では中世後期には、「ホウグ」の発音が優勢であり、近世に入ってからも多様な発音(ホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグ)がされていたと説明される。つまり、前近代においては「反故」「反古」の発音は「ホウグ」を主、「ホゴ」を従としつつ、多様な形で各地域で発音されていたらしい。これが、近代に入り、昭和期になった頃には「ホゴ」が主として定着し、平成期に生まれた私は当然のように「ホゴ」と習い、そしてそう呼んできたのであった。

 朝尾氏をはじめ、20世紀の前半に生を受け、数多くの刊本史料集を編纂したかつての研究者らは、ある種の常識(実生活的な知識)として「反故」「反古」は「ほうぐ」とも読むことを知っていたのであろう。ゆえに、冒頭3段落のような迂遠な説明など要らず、容易に「ほうく」に対して「(反故)」という傍注を入れられたと思われる。だが、残念な(平成生まれの)「現代人」たる”私”は、情けないことに一々勉強したり、調べたりする必要がある。昔の研究者のようにはいかないのだ。

 

 歴史学は、近年も常に新しい史料を掘り起こし、現代的な問題意識のもとで、新鮮な方法で斬新な見解を提示し続けている。この”進歩”はとても大事なことであり、私も続きたい。だが、同時に失われかねない「知」もあるのではないか、というものもある。本稿の一件は単に私が「無知」なだけだが、一昔前の何気ない、でも重要な「知」を失わずに研究していきたいと、自戒の念を込めて記しておいた。

 

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P.S. MacBookと【研究雑々感】

 この一件をより残念なものたらしめるのが、本文を執筆するために私のMacBookで「hougu ホウグ」と入力すると、「反故」が変換されたことであった、、、

 相棒としているもう一人の「現代人」はかなり優秀そうだ。「雑魚」な私の【研究雑感】は【研究雑々感】とでも呼んでおこう。

 

追記の追記:

 この度、黒木さんのご紹介で、ADVENTERの2023年アドベントカレンダー「言語學なるひと〴〵」に掲載することになりました。門外漢の出来損ないエッセイですが、「言語学な人々」の皆様にも日本史史料の文字表記と発音に興味を持ってくだされば幸いです(2023年12月3日)。

 さて、今回アドベントカレンダーのイベントに招待いただいた時に、「本当にこんな『誰得』エッセイで良いのであろうか」と思い、過去のアドベントカレンダーを幾つか確認してみました。研究での気づきや初学者向けの方法論の解説など、多様なお話を覗かせてもらいました。まあ、プロのものを見てますます自信をなくしたわけですが、同時に言語学の研究者・愛好者は「なんて面白いイベントを年末にやっているのであろうか」と感服した次第です。

 「日本史研究者も日頃の気づき、研究方法の解説を・・・アドベントカレンダーで・・・」と思いながらも、「私よりも研究ができる皆様は忙しいし、それどころではないか」と至りました。分野や方法の違いはあるかもしれませんが、研究者間で素直に「面白さ」を文章で共有できる環境は楽しそうです。

 

 

*1:朝尾直弘『放愚抄』私家版、2001年