T.Konishiのブログ

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境界域の歴史③ー北方民族世界のもう一つの地図・北海道編ー

唐突な告白だが、私は北海道の出身だ(正確に言えば、出身地の一つは北海道である)。

日本史の研究の界隈では、案外「地元の歴史」を調べている方は多い。日頃暮らす地域のかつての姿や己のアイデンティティを追い求めることは、十分に研究の動機になりうる。日本における日本史研究の意義がアプリオリに問われない本質的な要因もここにあろう。ところが、私の身を振り返れば、研究の関心や動機はそこになかった(詳しく書くと脱線が過ぎるため、ここでは略す)。京都の大学に進学し、中近世移行期の畿内近国を中心に研究を進めてきた。中世における日本列島の中心地域を扱ううちに、同時に地域間の差異や、周縁世界へも興味が生じてきた*1。このように、歴史学を突き詰めていけば、一度は「捨て」てきたと思っていた北海道や北方民族世界にまた舞い戻り、考え直すいい機会を得られたと思う。

 

先日、たまたま北海道に帰る機会があり、二風谷(にぷだに、平取町)コタンとウポポイ(白老町)を訪れた。二風谷はアイヌ民族の象徴的なコタン(集落)の1つであり、私がかねてより訪れてみたいと熱望していた場所であった。ウポポイは2020年にオープンした民族共生象徴空間の愛称であり、国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園・慰霊施設などを含むアイヌ文化復興・創造・発展のための拠点である。こちらは本年2月にも行ったことがあったので2度目の訪問である。本記事では両所に行ってきて得られた所感を中心に、北方民族の歴史を考えてみたい。

 

まず、「日本の歴史」「日本史」とは何を対象とするかを考えてみたい。邪馬台国、古代の律令国家、源頼朝によって開かれた鎌倉幕府江戸幕府に明治政府、この辺は勿論「日本史」の中心を占めよう。これらは専ら和人や大和民族と呼ばれる集団の歴史である。さて、問題は和人世界の周縁、乃至はその域外で独自の生活・文化圏を構築した人々の歴史ーー具体的にいえば、北方のアイヌ、ニブフ、ウイルタ、南洋の鬼界、奄美琉球八重山、そして対馬、五島、船で暮らす混血の海民たちの歴史ーーである。一応、現在のところはこれらも含めて日本史とされるが、真にそれらの歴史も「日本史」として考えることができているであろうか。専ら和人から見た境界域の歴史だけを対象にし、狭義の「日本」との関係のみに焦点を当てていないか。もっといえば、彼らの視点から見た世界を認識できているか、理解しようとしているか。境界域・周縁の歴史も「日本史」というならば、ときにこれらを自問しながら考える必要があろう。

そこで、今回は北海道を中心に置いた地図をベースに話を進めてみたい。国土の北の端を真ん中に持ってくることで何か新しいことが見えてくるかもしれない。

 

北海道を真ん中に持ってきた2つの極東アジアの地図がウポポイ内の国立アイヌ民族博物館の常設展出口付近に展示されている。1つは19世紀の民族分布を示すもので、北海道・南樺太アイヌ北樺太のウイルタ・ニブフ、沿海州のオロチ・ウデヘ、黒龍江アムール川)河口部のネギタール・ナーナイ、カムチャツカのイテリメン・エヴェン・コリヤーク、そしてシベリア・北極海・アラスカ周辺の北方諸民族の分布が一目瞭然である。実際には諸民族混在地域を想定すべきだが*2、とりあえず北方諸民族の数の多さを手早く認識でき、便利である。もう1つは、19世紀の交易ルートを表すもので、極東・東アジア、シベリア・アラスカ・北極海沿岸の特産品のイラストと、赤い線で描かれる交易路の交わりが見て取れる。私はこれらの地図を見た際に少し驚き、すぐに己の先入観を恥じた。

実は、上記の両図には1つの仕掛けが施されていた。というのも、これらはオホーツク海辺りを中心に東に約60度傾いた状態で描かれている。たしかに一見特異に映るが、北方諸民族の分布や交易ルートを見るにはこの形が適当である。そして、この地図は普段目にしないがゆえに、新鮮さと共に各地域間の距離感がわかりやすい。その中で最も興味深いと感じたのは、北海道を中心に見た場合に、北京・天津・杭州・福州といった中国の交易都市と、シベリアのヤクーツク・キャフタや北極海のアニュイがほぼ等距離であり、当然ながらオホーツクやカムチャツカ半島のボリシェレツク、沿海州満州諸都市の方が遥かに近い。「日本史」を習ったことがあれば、違和感を覚える者も多いと思われる。

日本は有史ーー正確に述べれば、有史以前に中国の歴史書にも既に登場するーー以来、東アジアの世界秩序の中で中国という国(地域)の影響を大きく受けてきた。文字、宗教、技術とあらゆるものが中国から朝鮮半島ないしは南西諸島を経由して南から日本列島に到来し、それらを古代国家形成の一助とした。そのため、「日本」は中華的秩序の端に位置付けられ、また中世以降は中国を中心とする東アジア世界経済に組み込まれた(村井2012)。そのような強大な隣国として「日本」の歴史に影響を及ぼしてきた中国が、北海道を中心にし見た場合はかなり遠方の国家に変容する。もちろん北方交易における中国の産品(蝦夷錦など)や中国商人らの働きを無視するわけではないが、相当に中国のプレゼンスが低下してしまうことは否定し難い。北海道(アイヌモシリ)に暮らす北海道アイヌにとって、より重要であったのは北方諸民族の中での交流であり、その視点を第一に持つ必要がある。ここで日本の定義を論ずるつもりはないが、日本史に北海道やアイヌの歴史を組み込むならば最低限それらの視点から見た「世界」も頭に入れておくべきであろう。

 

我々がよく目にする日本地図は、日本標準時子午線が通る兵庫県明石市周辺を中心におき、右上に北海道、左下に九州が来る。紙幅の関係から南西諸島や小笠原諸島は別記される場合が多い。日本列島が弓形状であり、現在の日本国の中心が本州であるため当然の帰結である。ただ、それゆえに列島の端に位置する周縁や境界域の世界が見えにくくなってしまう弊害もある。私の先入観は歴史学を専門とする者ならではものかもしれないが、中国や朝鮮半島、東南アジアとつながる「南からの道」が重要であるがゆえ、もう一つの北方世界と繋がる「北からの道」の存在や意味そのものをおざなりになることもあるはずだ。これを自省を促す契機として、周縁や境界域の歴史を考える際は、地図の中心をずらし、そこを原点に回転させてみるべきか・・・*3

 

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P.S.二風谷は?

例のごとく構想もプロットも作らず、適当に殴り書いた結果「二風谷の話がないじゃないか!」と。全くもってその通りなのだが、どうしてもまず自らを中心に置いてしまう世界観を相対化したく、境界域を考える場合の基本的な注意事項を記すことにした。とはいっても、二風谷の話も書きたいので、またの機会に預けておきたい。

 

参考文献:

村井章介戦国史のなかの戦国日本』(ちくま学芸文庫、2012年)

*1:詳しくは、「境界域の歴史①ー支配における中心と周縁の問題・奄美大島編ー」参照。

ku-history.hatenablog.com

*2:境界史を専門とする村井章介によれば、14・15世紀の道南十二館ではアイヌと和人の共住や混在が見られるという(村井2012)。近代ヨーロッパ由来の「国境」概念が強力に作用する以前においては、民族分布にも弾力性があったともう少し柔軟に考えておきたい。

*3:村井2012の十三湊や沖縄本島を中心として同心円状の地図も有効かもしれないが、回転させると新鮮な気付きがあるかもしれない。