T.Konishiのブログ

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中世人の気持ち①ー孫ぶたれ、爺嘆くー

「親父にも打たれたことがないのに…」

という台詞はたまに耳にする。家族よりも関係が希薄な間柄で暴力が行使された際に使う言い回しである。ただ、近年は親父も子を叩かないのが一般的であり(逆に叩いていたら大問題)、むしろ慣用表現としての使用が多いように思われる。とはいえ、今年24歳になる筆者は親父に打たれたことはないが、2回り歳を重ねる父が子どもの頃はよくあったらしい。子に対する暴力をめぐる価値観は、ここ3、40年の間に大きく変容したと言えそうだ。

かつては子に対する親の暴力行使というのは「躾」なる名目で許容されてきた。とはいえ、幼い子への暴力に対し、当人はともかく周囲の人間は全く心を痛めなかったのであろうか。そこで、中世の日記から彼らの心持ちを探ってみたい。

 

一、彦兵衛今朝彦二郎打タゝク、予出向、本所之近所之間申之、事外腹立、一日物クワス候也、比興候也、殊々色々申之、曲事也、

(『山科家礼記』長享二年九月二十二日条)

 

これは室町末期に公家山科家に家礼として仕えた大沢久守(当時、数え年で59歳)が記した文章である。ここに登場する人物はあまり有名ではないため、まずは紹介がてら彼らの関係を整理してみたい。彦兵衛は大沢重致(久守子、35歳)、彦二郎は後の大沢重敏(久守孫、重致子、9歳)を指す。つまり、長享二年(1488)九月二十二日早朝に「親父」たる重致が、子の彦二郎を打ち叩いた事件が発生し、彦二郎祖父の久守がそれを書き残したものである。

さて、今回着目したいのは祖父久守の感情ーーすなわち、爺ちゃんの気持ちーーである。

事件発生後、久守はすぐに彦兵衛らの家に出向き、何事かを述べている。そして、久守は腹を立てて一日何も食べなかったという*1。彦兵衛の孫に対する仕打ちに怒ったのであろう。さらには、彦兵衛を「比興候也」「曲事也」と強く非難した。

久守にとって、数え年で9歳になる孫の彦二郎は目に入れても痛くない大切な孫だったことは想像に難くない。しかしながら、久守が腹を立てて一日断食するというのは、現在の常識と照らし合わせると、少々やり過ぎな気がしないでもない。一般に中世人というのは現代人よりも感情が表に出るとされ、「笑われるとキレる中世人」と言われることもある(清水2006)*2。この事件でも感情が即座に振る舞いーー行動様式ーーに直結する中世人の生き方が伺えよう。それはさておき、今回は久守は大切な孫に対する子の仕打ちを嘆き、強い抗議のしるしに断食を行ったと考えたい。孫に対する愛情というのは中世人も現代人も関係なく、通時代的な感情であるが、中世人の方がより強く表出しているのは興味深い。戦乱・飢饉が頻発し、また乳幼児死亡率が高かった中世後期に、子孫の繁栄を願う老い先の短いお爺さんの視点に寄り添えば、孫が大切で大切で仕方がないのは肯けよう。久守の振舞いから、中世人も現代人同様、いやそれ以上に孫への愛情、幼い者への暴力行使に反対する気持ちが垣間見えるのではなかろうか。

 

さて、残された問題としては、なぜ隠居前で家長たる久守が、重致の非道に嘆くしかないのか。なぜ重致は彦二郎に暴力を振るったのか。これは家父長制の問題と家族の形態を同時に考えなければならないであろう。ただ、先鞭も多くつけられており、また論ずる力量は全く持ち合わせていないため、ここで止めておきたい。

さて、ちょうど近江国から京へ帰還したため、筆を置くことにする。

 

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P.S. 「感情」史の始め

この文章は、中世人の感情・感性に迫ろうとした初めての試みである。

ゆえに、話があまり面白くないという葛藤もあるが、少しずつ積み重ねていけば叙述も上達するであろう。これまで社会史や感情史とは一定の距離を置いてきたが、やはりそうした手法や分野を学ばずには、先に進めないという結論に至った。恥ずかしいが、少しずつ感情や習俗に関する見解を提示していきたい。

2022/06/22

引用史料元:史料纂集古記録編『山科家礼記』第四巻(続群書類従完成会編、八木書店

 

 

 

*1:なお、「本所」すなわち主君の山科言国の邸宅から近所であるため、事件を伝えているが、この一節が直後の「腹立」に関わるかは不明である。

*2:清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社、2006年)