T.Konishiのブログ

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境界域の歴史②ー揺れる時代区分、歴史家の苦悩・続奄美大島編ー

歴史家の苦悩とは何たるか。

 

ある研究者が講義で「歴史学とは時代を区分することである」と述べていた。本当にそうであるのか、という議論は置いておくとも、歴史学における時代区分の重要性は十分に認められるところであろう。

まるで自明の存在のような「◯◯時代」という表現も、かつての歴史家が名付けたものである。例えば、現在のところ「室町時代」と呼ばれる時代も、戦前においては「足利時代」と呼ばれる方が多かった(谷口2021)。実際に、いわゆる「室町幕府」が京都の室町に幕府を置いた時期は限られ、むしろ「京都幕府」と呼んだ方が鎌倉幕府江戸幕府と比べた時に対応するといった話も出てくるくらいだ。とはいえ、「京都時代」と呼ぶわけにはいかないので、鎌倉時代・江戸時代との対応関係を重視するならば、まだ室町時代の方が適当であろう。いずれにせよ「足利時代」と呼称することが荒唐無稽な話ではなく、一理あるわけである。ここで何が言いたいかと言えば、時代の呼称も歴史家・歴史学者たちが知恵を振り絞り、名付けているのである。それゆえ、決して自明視していいものでもないということである。そして、時代の範囲設定に関してはさらに多くの学説が噴出する。鎌倉時代の始まりはいつか、戦国時代はいつ終わったのか、と議論が繰り返されてきた。それほど歴史に携わる人間にとって、「時代」を名付け、範囲を設定するという時代区分は重要な作業であるというのを理解してもらいたい。

 

さて、ここらで切り上げ、話を境界地域へ。

奈良時代も、平安時代も、鎌倉時代も、室町時代も、江戸時代もよくよく考えると、首都もしくはそれに準じる都市や町の名が付けられている。すなわち、政治的中心地が時代名になっているわけである。そのため、当然ながら中心から周縁に向かえば向かうほど、時代名や時代区分とのズレも大きくなってしまう。例えば、古代は律令国家体制といっても、同時代にその領域外にある北海道や南西諸島の歴史を「古代」と呼ぶのは適当ではないであろう。このような境界域の歴史では、往々にして中心域の時代区分・時代名をそのまま適用するか否かといった葛藤が生じてしまう。

ここで本題だが、奄美大島における時代区分を紹介したい。以前の記事「境界域の歴史①ー支配における中心と周縁の問題・奄美大島編ー」で触れたように、奄美は「日本」の歴史から一定の自律性を有する独自の歴史を持つ。例えば、「弥生時代」になったからといって稲作が開始するわけでも、「古墳時代」になったからといって突然巨大な古墳が作られるわけでもない。狩猟(漁撈)・採集による文化が比較的長く継続する(北海道なども似た様相)。もちろん中世になっても「日本」の中世王権に組み込まれたわけでなく、ある程度の独自性を保つ。だからこそ「貝塚時代」「グスク時代」という表現は相応しいと思われる。ところが、その一方で当時の「中世日本」と全く無関係だったわけでもない。いや、むしろ日本や宋、そして遅れて登場してくる琉球王国沖縄本島)の影響は大いに受けていた。中世の南西諸島では、徳之島で作られたカムィ焼が広く流通すなど、日宋貿易・日麗貿易・日朝貿易の海上交易路と機能していたことが確認されている。となると、「日本」の時代名とも関連性を示す必要が生じてくる。そこで、考案されたのが、

「中世並行期」

という呼称である。この「○○時代並行期」「△世並行期」という呼称は奄美の歴史叙述で頻繁に用いられる(考古学分野が積極的に用いている節もある)。たとえば、「弥生時代並行期」では稲作が普及していないが、九州との繋がりを重視し、時期区分の呼称として使用される場合がある。「中世並行期」の場合、「中世日本」の指標(荘園制であるとか、権門体制であるとか、はたまた武士の活動とか)が南西諸島、こと奄美大島に見られるわけではないが、先に挙げた地域間交流の作用を重視した結果、「中世日本」の時代区分を採用した時代名となっている。ここにも、前記事で取り上げた中心と周縁の問題ーー「日本」の中心性を強調することで、周縁に追いやられる奄美の独自性が捨象される恐れーーを全く孕まないわけではないが、両者の交流による影響の大きさをとったのであろう。

このように、時代を区分し、名付けるというのは歴史学者の重要な仕事であると同時に、大きな悩みの種なのである。特に、境界域の歴史には先に挙げた中心と周縁の問題が常に付き纏う。たとえば、北海道の続縄文文化、擦文文化、オホーツク文化、そしてアイヌ文化の各時代に「日本」の時代区分をそのまま導入することは難しいであろう。沖縄も同じである。では、東北地方はいかがであろうか。詳しく見ると、北東北と南東北の間でも、古代国家「日本」に取り込まれた時代に差異があり、単純に当てはめるわけにはいかないであろう・・・

そして、これが大きな問題になるのは、各地域に今も人々が暮らしながら地元の歴史(地域史)を考える際に、中央の時代名を無自覚に濫用されていると、自らの歴史を否定されたように(否定までいかなくとも、覆い隠すように)感じる場合がある点である。

 

歴史を叙述するにあたって、真っ先に使う時代区分・時代名についても慎重な検討を要するということを、自らの心に刻んでおきたい。

 

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P.S. ティラダとトビンニャ

奄美大島を旅するということは、すなわち、奄美の居酒屋を巡ることである(?)。

その時、居酒屋で出される、ある貝の名前が奄美の南北で大きく異なることを知った。マガキガイのことを奄美北部では「トビンニャ」と呼び、南部では「ティラダ」と呼ぶ。更にややこしいことに、大島南端の対岸に位置する加計呂麻島では「トビンニャ」と呼ぶらしい。

奄美は平坦で珊瑚礁の海に囲まれた北部と、急峻な山・マングローブリアス式海岸がある南部で自然地形が違う。これが南北で多くの文化的差異を生み、複雑かつ多様な奄美大島を作り出している。方言も南北で差異があるらしい。ティラダとトビンニャに関しても、分布を見ると、どうも琉球か薩摩のどちらかの言葉が汎用されたか分かりそうである。が、酒飲みながら考えることではあるまいし、美味しくいただくのが一番である。

それにしても、ティラダとトビンニャは全く違う発音で驚かされた。

 

参考文献:

谷口雄太『〈武家の王〉足利氏』(吉川弘文館、2021年)