T.Konishiのブログ

歴史とか本とか旅行とか

境界域の歴史①ー支配における中心と周縁の問題・奄美大島編ー

境界域の歴史に関する最近の所感を記す。

 

まず、なぜに境界地域に己が着目するに至ったかを簡単に述べよう。

一つ大きな要因は昨年以来、境界史に触れる機会が多かったことによるだろう。2021年7月4日に歴史学入門講座にて村井章介による「境界史の構想」の講演を拝聴し、また学内の中世後期研究会においては大石直正・高良倉吉・高橋公明『周縁から見た中世日本』(講談社、2009年)の読書会が開かれるなど、境界史を学ぶ機会に恵まれた。戦国期の畿内近国を研究対象とする筆者からすれば、非常に刺激的かつ示唆に富んだ学びであったと思われる。

もう一つの契機としては、旅によって文字通り境界地域へ触れたことが挙げられよう。旅好きな筆者は大学入学以降、2018〜2020年2月頃までシルクロードなど海外に足を運んできたが、ご存知の通りCOVID19によるパンデミックにより海外渡航は制限されてしまった。だが、そうした状況下でも異国への憧憬は絶えることはなく、日本国内の中でも独特な文化を有するエリアへの旅行が増えていった。出身地の北海道以外に、2020年3月高知県徳島県、4月和歌山県南部、9月青森県津軽地方・秋田県、11月沖縄本島、2021年3月宮崎県・鹿児島県、9月岡山県広島県愛媛県(瀬戸内海沿岸)、2022年3月鹿児島県奄美大島、と関東・中部・近畿以外を旅してきた。現地を回ると、各地での歴史の形成、叙述、そして伝達には大きな特色があり、様々な所感を抱いたため一旦ここに纏め置きたいと思う(纏め置くとは言っても、全体として整形された研究には到底至らず、寧ろ個々の旅の感想とそれによって惹起された思考の布切れを適当に縫い合わせた程度のものである)。

さて、近い記憶から掘り起こすことにしよう。

 

奄美大島ー移りゆく境界線、交わる人とモノー

この島は日本の南西諸島に位置し、鹿児島県南部の奄美群島における最大の島である。2021年には西表島・徳之島と共に世界自然遺産に登録され、注目の的となったことは記憶に新しい。私は2022年3月末に奄美大島を訪れたが、その境界域としての数々の特殊性に衝撃を受けた。その中でも最も興味が惹かれたのは、境界「線」の度重なる変更、すなわち行政区分の変遷である(以下の知識には、奄美市奄美博物館・奄美市立歴史民俗資料館の展示によるところが大きい、初めに断っておきたい)。

続日本紀』などの記述により、日本における古代国家の南限は種子島(多褹)・屋久島(掖玖)とされている。つまり、奄美大島(海見、菴美、阿麻彌)は境界の外側と認識されていた。また、中世における日本の範囲は、東が「外浜(青森市周辺)」、西が「鬼界が嶋(鹿児島県南西の薩南諸島)」と認識されていたとされる(柳原2014)。中世までは奄美大島は「日本」の境界の外と考えられていた。ただ、その一方で鎌倉後期には「日ノ本」と呼ばれる津軽地方同様に北条得宗家による間接的支配に組み込まれつつあったのもまた興味深い事実ではある。その後、中世後期からは奄美大島は島外からの制約を直接的に受けるようになる。14世紀以降、急速に台頭してきた琉球王国が侵攻し、奄美群島は相次いでその支配を受けた。そして1609年には薩摩藩琉球に出兵し、それを保護下に置いた際に、奄美大島琉球王国から薩摩藩に譲られた。ただ、薩摩藩は幕府に対してその事実を報告しておらず、体裁としては琉球王国内としながら、実際には薩摩藩の代官支配が行われるなど、曖昧な状態に置かれた。このことは奄美大島に一字苗字(「龍」「竹」「中」など)が多いことにも表れている。薩摩藩は後で幕府に問い詰められたときに言い訳できるように、中国風の苗字を与えたとされる。さらに、近代以後もその境界域としての曖昧さは継続する。明治維新後は大隅国編入、その後は鹿児島県となり、大島大支庁→金久支庁→大島島庁→大島郡16村の成立と移りゆく。第二次世界大戦後は米軍の統治下に置かれた。ここでも臨時北部南西諸島政庁、奄美群島政府などと上位の行政組織は目まぐるしく変遷する。そして、沖縄県に先立ち、1952年にトカラ列島、1953年に奄美群島は本土復帰を果たす。これが奄美大島、並びに奄美群島の境界線の歴史であった。

さて、奄美大島の境界「線」を見てきたが、激しい変化が繰り返されたとわかるだろう。ここで議論の俎上に上るのが、周縁地域において行政区分としてのラインに注目することが果たして有効であるのかという問題である。境界線は、その時々の域外の政治主体(奄美大島であれば、琉球王国薩摩藩大日本帝国アメリカ合衆国)の政治決定に大きく左右されるーーそして、その決定はその中心地域においてなされるーー、すなわち、必ずしも現地の様相・意思を反映したものではない。また、その生活実態に即したものでもない。当然、政治史的次元では重要な問題だが、境界域の歴史そのものを考えるには不十分といえよう。それどころか、こうした枠組み、「線」に固執することで経済・社会・文化・宗教の関わりが捨象されてしまう。そこで、境界域として考えることが必要になるのではなかろうか。先に挙げた村井章介が提唱した「中世日本列島の地域空間モデル」(通称、村井モデル、村井1985)は境界の歴史を捉える上で大きなヒントをもたらした。村井モデルは自己を中心に置く同心円モデル(中心ー周縁ー境界ー異域)と、海域を取り巻く双曲線モデル(日本海域、東シナ海域)を同時に描き、自己中心的な空間概念を相対化させたと言われる(柳原2014)。これは境界域の複合的な文化・宗教、重層的な社会・経済、両属的な政治的関係などと言った複雑性・多様性を捨象しない重要な視角となる。また、時を同じくして1980年頃から西洋史研究においても境界を線ではなく地帯やゾーンとして考える議論が提起されている。これらは、ポスト植民地主義の影響を受け、政治主体の中心性を相対化させる研究視角が台頭し、一般に受容されたことによるだろう。しかし、こうした学界の中心における研究潮流に先立ち、境界域の側からは既に声が上がっていた。そこで、話を再び奄美に戻したい。

今回の奄美旅行での最大の収穫は「ヤポネシア論」との邂逅であった。「ヤポネシア」とは奄美大島第二次世界大戦を経験し、その後その戦争体験を綴った島尾敏雄による造語である。日本列島を、ミクロネシアポリネシアメラネシアインドネシアといった島嶼の集合体になぞった概念である。「ヤポネシア論」は今から50年以上前に、島尾が奄美に視座をおき、日本の強権的中央視座とその背景思想に批判的な眼差しを向けたことで生起したとされる(長嶋2019)。「ヤポネシア論」は、歴史的に植民地支配をした(もしくはそれに近い政治支配をおこなった)日本の中央政府に対する反発、そしてそれに寄り添うーー少なくとも、地元民にはそう思えたーー歴史叙述に対するアンチテーゼとして南西諸島住民を中心に受け入れられた(実際の政治・社会問題としての本土ー離島間の格差が背景にあるだろう)。この研究視角は「琉球弧」という考え方や島嶼部研究の視角に受け継がれ、また本土四島をも島嶼集合体として捉え直す研究視角に応用されたりしている(『日本ネシア論』2019)。我々は「日本史」「日本の歴史」といった言葉を先に知り、その後から内容を体系的に習う日本国の歴史教育では「日本」という国家の存在がある種の自明視をされている。したがって、その国家が成立する過程や、国家にとっての重大な過去の経験を学ぶ。これ自体には重要性はあるが、一方でその始まりにおいて自明視された「日本」を一歩引いて俯瞰的に見ることを難しくさせる。そこで最近、歴史教育ではこれらの課題に対して、世界史・日本史を統合し、歴史実践を通して世界史の次元で日本を理解することを推奨する歴史総合への科目改変が行われた(小川2021)。歴史の大文脈に日本を位置付けるという意義は十分に理解できる。しかし、「日本」という国家の存在を自明視する見方に変わりないであろう。また、いきなり文化的差異の大きい遠方の歴史と結びつけてしまわないかという懸念もある(特に古代・中世史は注意を要する)。そこで重要となるのが、「ヤポネシア論」のように日本の存在を相対化させつつ、少し俯瞰的な視座(東アジア、日本列島、日本周辺域)を持つことである。文化的多様性を尊重することが大きな価値観になりつつある21世紀においては、様々な目を持ち、時に中心から過去を望み、時に周縁から歴史を見るなど、複合的・重層的な視角が大切になるのではなかろうか(なお、歴史における国家性を否定したい訳ではなく、あくまでも多様な視点の必要性も主張している)。

想像の域を出ないが、ヤポネシア論が、沖縄本島でもなく、鹿児島本土でもなく奄美から生まれたのはその境界線の曖昧さ、すなわち微妙な境界域としての性質がトリガーになったのではないであろうか。奄美大島は、日本本土との対比の中では被害者に描かれる琉球に侵攻されたり、やはり琉球同様に薩摩藩大日本帝国の苛政に遭ったりしてきた。政治的な中心性(≒求心力)を持つ島外の勢力に振り回された過去は、周縁による独特なものの見方を生み出した。奄美の歴史のような境界史からは、今後も歴史叙述や、歴史研究の視角に多くの所産をもたらす気がしてならない。

 

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P.S. 奄美大島で飲んだ黒糖焼酎は美味かった。

一昨年、沖縄で泡盛を、昨年に宮崎・鹿児島で麦焼酎芋焼酎を知った。九州南部から南西諸島にかけては蒸留酒が盛んだが、奄美黒糖焼酎はまさしくその地理的要因を反映するものであろう。沖縄本島に距離的に近く、文化的・言語的にも共通項は多いが、薩摩藩による支配以降は鹿児島に属するようになったため焼酎の製造が盛んになった。特に薩摩藩奄美大島に対して従来の稲作をやめさせ、黒糖のプランテーション化を実施した。薩摩による統治は熾烈を極め、「黒糖地獄」と呼ばれたという。ちなみに、プランテーション化により、江戸時代の奄美大島は飢饉に瀕することが多く、ソテツ粥などで飢えを凌いだという。こうした点でも東南アジア島嶼部同様に、植民地支配を受けていたと言って間違いない。

名瀬の海鮮居酒屋にて、苛政に苦しみながらも逞しく暮らしたかつての島民の生活に思いを馳せながら味わうと、また違う味がしてきた(かもしれない)。

 

参考文献:

小川幸司「〈私たち〉の世界史へ」(『岩波講座世界歴史01ー世界史とは何か』岩波書店、2021年)

嶋俊介「ネシア・ニッポン」(『日本ネシア論』藤原書店、2019年)

村井章介「中世日本列島の地域空間と国家」(『アジアのなかの中世日本』校倉書房、1988年、初出1985年)

柳原敏昭「中世の交通と地域性」(『岩波講座日本歴史第7巻中世2』岩波書店、2014年)